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 NTT東日本吉原ビル 東京都台東区千束



あの有名な「歓楽街」の程近く
新吉原花園池(弁天池)跡に建つ電話局。















新吉原花園池跡・吉原弁財天から見えた局。









©denwakyoku.jp
局前の日本コムシス吉原ビル





局付近の歓楽街。










| 新吉原花園池(弁天池)跡












 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(一六五七)の大火後、幕府の命により、湿地帯の一部を埋めて、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和三三年までの三〇〇年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
 遊郭造成の際、一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝客が訪れている。
 池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正十二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九〇人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に立つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正十五年に造立されたものである。
 
昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
平成十年三月 台東区教育委員会







| 花吉原名残碑 (はなのよしわらなごりのひ)



 吉原は、江戸時代における唯一の幕府公許の遊郭で、元和三年(一六一七)葺屋街東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂れる湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原を称したのを、のちに縁起のより文字にあらためたことによるという。
 明暦三年(一六五七)の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を残す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
平成十七年三月 台東区教育委員会








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撮影:2007.12 / 更新:2008.01.20

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